――「良い/悪い」より、自然への畏れと感謝を大切にする参拝へ
はじめに:ずっと頭に残っていた「ベスト/バッドスポット」の言葉
10年ほど前、知人を介して“霊能者”と呼ばれる方に視ていただいたことがありました。
直接お会いしたわけではなく、正式な鑑定でもありません。あくまで善意のアドバイスの一つとして、
「あなたにとってのベストスポット/バッドスポット(日本のみ)」
として、いくつかの神社や場所の名前を聞いたのです。
無償で、背景や細かなニュアンスを質問できる状況でもなかったため、
その言葉をどう受け取ればよいのか、長いあいだ考え続けることになりました。
当時は単純に、
「バッドスポットと言われた場所には行かない方がいいのだろう」
そう受け取り、実際に避けていました。
けれど、神社参拝を重ね、自分自身の体験が増えてきた今、
その言葉は少し違う意味を持って心に残っています。
それは、
場所を「良い/悪い」で分けるための言葉ではなく、
自分の心の置き方を見つめるためのヒントだったのかもしれない、という捉え方です。
自然の前で湧く「畏れ」は、日本的な感覚の中心にある?
山や木々、湿原、海や川。
自然の中に身を置くと、自然と謙虚な気持ちになります。
「畏れ多い」という表現が、いちばん近いかもしれません。
怖いという感情とは違い、背筋が伸びて、静かに感謝が湧いてくる感覚です。
自然は、人間の都合では動かせず、支配も理解もできない存在です。
それでも、そこに「ただ在る」。
その前に立つと、
「何かを得よう」「願いを叶えよう」という意識が薄れ、
ただ在るものへの敬意が自然と立ち上がります。
そして、
今この瞬間も生かされていることへの感謝が、あとから静かに続いてくる。
昔から「畏れ(おそれ)」と呼ばれてきた感覚は、
恐怖ではなく、こうした自然な敬意のことだったのだと思います。
私が神社で感じる感覚も、これにとても近いものです。
【三峯神社】
「氣が満ちる」の正体は、自然が“神域として立っている”感覚
三峯神社を初めて参拝したとき、
私が強く感じたのは、空気の清々しさでした。
その感覚を言葉にするなら、
「浴びるというより、満ちてくる」
「澄んだ空気が、胸いっぱいに流れ込む」
という表現がいちばんしっくりきます。
ここで大切なのは、
主語が「私」ではなく、自然そのものだったということです。
参道の空気、
山や木々の圧倒的なスケール。
人間の尺度が通じないものが、最初からそのまま在る。
私はそれを、「八百万の神」という感覚に近い形で受け取ったのだと思います。
山も木も岩も空気も、それぞれが「そう在る」こと自体がすでに神聖で、
だからこそ、余計な言葉や願いが必要なくなる。
初回の参拝後、「不思議なくらい元気が続いた」と書きましたが、
それも何かを“もらった”というより、
自然に満たされた結果として起きたことだったように、今は感じています。

【三峯・奥宮】
強まったのは「高揚感」ではなく、受け入れた一体感
9か月後、奥宮へ登ったとき、
前回のような高揚感はありませんでした。
代わりに残ったのは、
「心身が整った」
「自然の秩序に、自分の呼吸が合っていく」
そんな静かな一体感です。
奥宮まで登る行為そのものが、
言葉ではなく、身体で表す「ご挨拶」になっていたように思います。
自然に向き合う姿勢が、そのまま参拝になる。
三峯では、そんな感覚を強く意識しました。

【武蔵一宮 氷川神社】
ホーム神社は、感謝と日常の無事を願う場所
三峯が「自然そのもの」だとしたら、
大宮の氷川神社は、暮らしの延長線上にある神社です。
畏れはありますが、どこか身近。
生活がつつがなく続いていることへの感謝と、
「今日も明日も穏やかに過ごせますように」という
日常的な祈りが自然に出てきます。
私にとっては、
特別な覚悟を整える場所というより、
日々の区切りとして手を合わせる「ホーム神社」という感覚です。

【田無神社】
五龍神の神社は、日常をほどく癒しの空間
田無神社では、
「都内の神社としての安心感」と
「自然と静寂のバランス」を感じました。
ひとりの時間にちょうどよく、
おみくじやお守りを選ぶ楽しさもある。
ここで整う気持ちは、
三峯のような山岳の畏れとは異なり、
日常の疲れを静かにほどいていく方向の整いです。

まとめ:神社ごとに、気持ちの置き方が違っていていい
かつて聞いた「ベストスポット/バッドスポット」という言葉を、
今の私はこう捉えています。
それは、
「ここは良い」「ここは悪い」と判断するためのものではなく、
自分がどんな気持ちで参拝すると自然なのかを見つめる材料だったのかもしれない、と。
- ホームの神社では、感謝と日常のお願い
- 山の神域では、畏れと敬意、そして感謝
- 街の神社では、静かな癒しと区切り
同じ神社参拝でも、
場所によって心持ちや姿勢は変わっていい。
その違いを感じ取り、受け取ること自体が、
私にとっての「八百万の神」なのだと思います。
これからも私は、
自然への畏れと感謝を忘れず、
今の自分の感覚で手を合わせていきたい。
それがいちばん無理がなく、
いちばん誠実な参拝の形だと感じています。


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