神人さんの『死後の世界の真相 亡き母との対話でわかったこと』を読み終えました。
今は『みたまとの対話』も並行して読んでいて、もうすぐ講演会にも参加する予定です。
でもこの記事は、「死後の世界について、こういうことがわかりました」という話ではありません。
むしろ、なぜ今、こんなにすんなりこの本が入ってきたんだろう、という自分への問いのようなものです。
ずっと好きだった世界
占いから、最近少しずつスピリチュアルなことへ関心が広がっています。とはいえ、私にとってこの世界は、突然現れたものではありません。
若い頃にはシャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』を読み、江原啓之さんや美輪明宏さん、佐藤愛子さんの本も読んできました。古くは『あなたの知らない世界』、そのあとに『オーラの泉』『天国からの手紙』もよく観ていました。
お化けは怖いけれど、本当に怖かったのはあのテレビの編集の仕方だったと思います。効果音や再現フィルムのおどろおどろしさ。夜にトイレに行けなくなるような、あの演出。その表現は苦手でしたが、でも「あの世はある」と、ずっと感じていましたし、興味もとてもありました。
今年6月、美輪明宏さんが亡くなられて、本を読み返したり、昔のYouTube動画を見直したりしていました。
そして出会ったのが、神人さんの動画でした。動画は自分が興味があるテーマばかりで、過去にさかのぼっていくつも視聴しました。
『オーラの泉』の頃はテレビが情報を伝える大きな柱でしたが、今はSNSの時代です。
ネットでも検索し、書籍もたくさん出ていることを知って、購入したのでした。
関心があるもの、好きなものとして、ずっと見えない世界は意識していた自分には刺さる内容のものだったのです。本を読みながら、「そういうことなのかもしれない」と幾度もうなずくことになったのでした。
付箋を貼ったのは、「死後」より「どう生きるか」だった
興味深い内容ばかりでじっくり読みたい気持ちもありましたが、まずは我慢できずに駆け足で読んでしまいました。なので、気になったところに付箋を貼って、あとで読み返すことにしました。
すると、「死後の世界」というタイトルの本なのに、私がもう一度読みたかったのは、今をどう生きるかについて書かれた場所ばかりだったのでした。
印象に残ったのは、神人さんのお母様が語られていた「人生を愉しむ」ということ。どんな状況でも喜びを見つけ、限られた時間をどう使うか、という考え方でした。
そして、もうひとつ強く心に残ったのが、「生きる=選択の連続性+因果の経験」という考え方です。
何が起きるかを、すべて自分で選べるわけではありません。でも、その中で何を選ぶのか。その選択によって起きたことを、どう経験していくのか。そこは自分に委ねられている。
この言葉がとても心に残ったのは、私自身、年齢とともに「自分で選ぶ」ということの意味が変わってきたからかもしれません。
若い頃の私は、言われたことはきちんとやる、反抗しない、人に迷惑をかけない。そんなことを大切にしていました。もちろん、それ自体が悪いことだとは思いません。
ただ当時の私は、「自分はどうしたいのか」よりも、「どうするのが正しいのか」「相手が望んでいるのは何か」を先に考えることが多かったように思います。意見を言うことも苦手でした。その場では何も言えず、ずっとあとになってから、
「あのとき、本当は嫌だったんだ」「私はこうしたかったんだ」
と、自分の気持ちに気づくこともよくありました。でも、年齢を重ねてさまざまな経験をする中で、少しずつ考え方が変わってきました。思っていることを伝えることは、わがままではない。意見が違っても、言葉にしなければ相手にはわからない。率直に自分の気持ちを伝えて、お互いに理解しようとすることも大切なのだと思えるようになりました。
そして今、以前より大切だと感じるのが、選択する勇気です。
自分で決めたことが、いつも思いどおりの結果になるとは限りません。「あちらを選べばよかった」と後悔することだってあると思います。それでも、自分で考えて選んだ結果なら、その経験も含めて自分のものです。誰かのせいにするのではなく、「私はこう選んだ」と受け止める。
うまくいったことも、後悔したことも、そこから何かを知っていく。
そう考えると、「生きる=選択の連続性+因果の経験」という言葉が、とても現実的なものとして感じられました。
死んだらどうなるか、ではなく、生きているうちにどう選ぶか。
50代になった今、この本を読みながら私が考えていたのは、むしろこちらのほうだったのです。
それぞれが信じるもの
京都の近くに住んでいた頃、私は霊視ができる方に相談していた時期があります。育児の悩みなどをよく聞いていただいていました。
その方が語る世界は、今思うととても仏教的でした。観音様や菩薩様や、明王様、蓮の花、といった言葉がよく出てきたのを覚えています。お寺でお祓いしたというお塩や、お守りとして念珠をいただいたこともあります。
その後、別の霊視の方にも出会いました。その方はインド占星術も使われており、インドにご縁のある方です。
また知人の紹介で教えていただいた別の霊視の方は、相性の良い神社を教えてくださる方でした。
同じように「視えない何か」を感じ取る力があるかたでも、表現する言葉、世界観が少し異なっているのだと思いました。
でも、それは、人それぞれ感覚は違うもの。それぞれがみえているもの、信じていること、好きなことを元に表現しているのだ。それは個性である、と受け止め、どれが正しい正しくない(当たる当たらない)、とは思いませんでした。
『靈団』という考え方に、重なるものを感じた
『死後の世界の真相』の中に、「靈団」という話が出てきます。
人は亡くなったからといって、それまでの靈え方や習慣がすべて消えるわけではない。異なる想念を持つ霊的な集団が存在する、という考え方です。
この部分を読んだとき、自分の受け止め方はある意味合っていたのだと感じました。
「ああ、あのとき感じていたことは、こういうふうに考えることもできるのだ」と。
証明できることではありません。でも、自分の中で明確には答えが出ないまま、感覚として受け入れていたものに、後から違う角度の光が当たったように思いました。
お葬式や供養について、ずっと感じていた違和感
以前、夫とお葬式について話したことがあります。
夫は盛大できちんとした葬儀を望んでいるのに対して、私はもっと簡素なものでいい、何ならしなくてもいいくらいに思っています。夫婦でも、こんなに考え方が違うのかと、そのとき改めて感じました。
私にとってお葬式は、亡くなった人のためというより、残された人が気持ちを整理し、送り出すためのもの、という感覚が以前からあります。
お葬式だけではありません。
読経や戒名、お墓についても、「これは本当に亡くなった人のために必要なものなのだろうか」と、以前から漠然と感じていました。
『死後の世界の真相』には、お墓や仏壇、読経について、一般的なイメージとは違う語られ方をしている場面があります。かなり驚く内容もあります。
でも不思議と、抵抗はありませんでした。むしろ「そのほうが自分には自然だ」と感じたのでした。
だからといって、昔からの習慣を否定したいわけではありません。その形に安心を感じる人がいることも、よくわかります。ただ、「昔からそうだから」という理由だけで自分まで同じように考えなくてもいいのかもしれない、とは思うようになりました。
占いも天然石も、同じ場所から始まっていた気がする
最近、天然石にも夢中になっています。
20数年前にいただいた念珠が、私にとって特別なお守りだったせいか、天然石を自分で選ぶとき「自分に合う正しい石を選ばないと」とずっと考えてしまっていました。その結果、石は好きなのに買うことはありませんでした。基準に迷いがあったんです。
それが「木霊石」さんの石に出会って、自由に「ピンときたものを選べばいい」と思えるようになってから、石を選ぶのが楽しくなりました。
占いについても、「答えを教えてもらうもの」というより、「自分は本当はどう思っているんだろう」と気持ちを整理するために使いたいと思っています。
書き出してみて気づいたのですが、天然石も占いもお葬式も、根っこにあったのは同じ問いだったのかもしれません。「正解を外側に探すのをやめて、自分がどう感じるかを大事にする」という、同じ動きです。

こういうことには、「知る時期」があるのかもしれない
若い頃に『アウト・オン・ア・リム』を読んだときも、今回神人さんの本を読んだときも、感じたのですがタイミングというのもあるのかもしれません。
この記事を読んだ人に「こう考えるべき」と伝えたいわけではありません。
私自身も、まだ全部を理解したとも、答えが出たとも思っていません。
ただ、今の私にはこの本が(この考え方が)自然に入ってきた、ということだと思います。
信じるように言われて信じるものではなく、自分の準備が整った時に出会うと気づく。
そういうことなのかなと思っています。
講演会の前に、いま思うこと
ちょっと緊張はするのですが、近いうちに神人さんの講演会に参加することにしました!
実際に話を聞いて自分が何を感じるのかは、今の時点ではまだわかりませんが、とても楽しみです。
まだ書籍もたくさんあるので、ひとつずつ読み進めていきたいと思っています。
死後の世界について読んで、結局私が考えていたのは「今どう生きるか」そしてその先にある「死」でした。
残された時間がどれくらいかは誰にもわかりませんが、今を生きることを大切に、機嫌よく。
心惹かれるものを、心のままに素直に受け止めていきたいです。


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